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東京高等裁判所 昭和32年(ネ)2752号 判決

控訴人 鈴木小右衛門

被控訴人 小林百貨店

主文

原判決を次のとおり変更する。

控訴人の本訴請求を棄却する。

控訴人は被控訴人に対し金三十万円及びこれに対する昭和二十九年十一月十二日からその支払の済むまで年五分の割合による金員を支払え。

被控訴人のその余の反訴請求を棄却する。

訴訟費用中、本訴について生じた分は第一、二審とも控訴人の負担とし、反訴について生じた分は第一、二審を通じ控訴人及び被控訴人の折半負担とする。

この判決は第三項に限り仮に執行することができる。

事実

控訴代理人は「原判決を取り消す。本訴につき、主たる請求として、控訴人と被控訴人との間には別紙引請書と題する証書の内容である身元保証契約は存在しないことを確認する。右契約の存在が認められる場合の豫備的請求として、同契約は無効であることを確認する。反訴につき、被控訴人の請求を棄却する。」との判決を求め、被控訴代理人は「控訴人の控訴を棄却する。」との判決を求めた。

控訴代理人は

本訴の請求原因及び反訴に対する答弁として

一、(一) 控訴人は被控訴人に対し別紙引請書と題する証書(乙第一号証)を差し入れているが、それは後記(二)以下の理由により身元保証契約が存在することを示すものではなく、仮にその存在を示すものとしても、これが有効であることを示すものではない。

(二) 控訴人の二女武子の夫であつた訴外皆川猛(以下単に猛という)は昭和二十六年十月二十六日被控訴人に雇われ、その外売部外交係として勤務していたが、昭和二十九年四月七日頃社金を横領費消したことが発覚して解雇された。しかして、訴外角田慶一郎は当時被控訴人の経理部次長、訴外横山治一は同人事部係長、訴外近藤正は同外売部次長であつたが、右三名は自己の責任上窮余の策として同月十六日控訴人に対し猛が社金三十余万円を拐帯して行方をくらましたことを告げ、これについて控訴人が保証人としての責任を負うべきこと及びその証拠として引請書を被控訴人に差し入れるべきことを要請した。しかし、控訴人は曾て猛の身元保証をしたことがなくこれを拒絶したが、右三名の要請が余りにもしつこいので、被控訴人が猛の実家からも同様の引請書を徴することを条件としてその要請を承諾することとし、乙第一号証の引請書を作成してこれを被控訴人に差し入れた。このような条件付の承諾は契約における真の承諾ではなく、従つて、その条件が成就するまでは契約を成立させるに足りないものであるが、被控訴人はその後猛の実家からこれと同様の引請書を徴することができなかつたので控訴人は同年五月一日頃被控訴人に対し右承諾を撤回する旨を通知した次第であるから、右引請書の内容となつている身元保証契約は遂に存在を見るに至らなかつたのである。

(三) 仮に右契約が成立したとするも、同契約は、前記三名が控訴人に対し「猛の実家にも同様の契約をして貰う」「猛の横領による被控訴人の損害については猛を被控訴人に紹介した前記角田も身元保証人としての責任を負う」「引請書は猛の捜索願を出すのに入用である」等と申し向け、控訴人がそのように誤信して結んだものであるから、要素の錯誤による法律行為であつて無効である。

(四) 仮に右契約が当然に無効でないとしても、同契約は前記のように被控訴人の職員が控訴人に虚構の事実(被控訴人はその後猛の実家や角田と猛の身元保証契約をしなかつたばかりでなく、猛の捜索願も出さなかつた。)を告げ控訴人を騙してこれを結ばせたものであるが、さらに、前記三名は右契約に当り自宅に病臥中の控訴人に対し午前十時頃から午后四時頃までの長時間対面を強い、その間「控訴人が契約をしないときは直に猛を告訴し、且つ警察をして同人を逮捕させる。」等の強迫的言辞を弄して控訴人を恐れさせたのであつて、被控訴人の職員のこの強迫も控訴人が右契約を結ばざるをえなかつた一半の原因となつているので、控訴人は昭和二十九年七月二十八日被控訴人に対し詐欺及び強迫を理由として右契約を取り消す旨の意思表示をした。それ故、同契約は初めから無効とみなされるに至つたのである。

(五) これを要するに、前記引請書と題する証書の内容である身元保証契約は存在しないか、仮に存在するとしても無効であり、かりに有効に成立したとしても、その後これを取消したものであるから、さかのぼつて無効となつたものである。よつてその無効の確認を求める次第である。

二、(一) 控訴人は被控訴人のために猛の身元保証をしたことはない。控訴人は昭和二十九年一月十三日被控訴人に対し猛の横領による損害金のうち金二十万円を弁償したことがあるが、それは猛の父としての情義からしたものであつて、保証契約に基いてしたものではない。また、乙第一号証の差入れか保証契約を結んだものでないこと及び仮に保証契約を結んだものとしても当然無効ないし取消により初めから無効とみなされるに至つたものであることは先に指摘したとおりである。

(二) 仮に控訴人が猛の身元保証をし、その契約が有効と認められるとしても、控訴人は被控訴人主張のような多額の損害賠償義務を負うものではない。

控訴人は、被控訴人が猛の社金横領によりその主張のような損害を被つたことは争うものであるが、それはそれとして、身元保証人の責任及び範囲は「身元保証ニ関スル法律」第五条により被用者の監督に関する使用者の過失の有無、身元保証人が身元保証をするに至つた事由及びこれをするに当り用いた注意の程度、被用者の任務又は身上の変化その他一切の事情を斟酌して決定されるべきものであるから次にこれらの事情について見るに、

(イ)  猛は被控訴人が主張するように二十六万円近くの社金を横領費消し、昭和二十八年十一月中そのことが発覚したのであるから、被控訴人はこのとき同人を外売部外交係というような大金の集金事務を伴う職場から多額の現金を扱うことのない職場たとえば配達係というような職場に転用すべきであつた。しかも、この職場の変更については、控訴人からも前記二十万円の弁償に際し被控訴人にその申出をしたのであつたが、被控訴人はこれに耳をかさず、漫然猛を外売部外交係に残留させ、あまつさえ、同人に対し適切な注意監督もせずにそのするがまゝに放任したのであつた。それ故、仮に被控訴人がその主張のような多額の損害を被つたとすれば、それは自らの過失によるものというべきである。

(ロ)  控訴人が本件身元保証をしたのは、先に指摘したように被控訴人の職員が猛の社金横領による被控訴人の損害は三十余万円であり、これについては猛の実家及び猛を被控訴人に紹介した角田慶一郎もともに身元保証人としての責任を負うものであると申し向けられ、控訴人はこの言明をそのまゝ信じたことによるものであつて、損害は三十余万円ではなく百八万余円であり、しかもこの多額の損害につき控訴人が単独で身元保証の責任を負うというようなことは当時控訴人の夢想だもしなかつたところである。

(ハ)  猛は教育もあり、商才にも長じているから、被控訴人はその損害を猛に賠償させることも必ずしも不可能ではない。

(ニ)  被控訴人は営利企業の代表的なものともいうべき百貨店を経営するものであるから、本件のような社員の社金横領による損害は経常費として予算に組んでいることであろうし、他からその補顛を受ける必要はないものと思われる。

(ホ)  これに反し、控訴人は収益の乏しい農業によつて、辛うじて生計を立てゝいるのであり、しかも、今や老齢、病躯の身であり、被控訴人主張のような多額の損害賠償に応ずる能力はないのである。

なお、新潟地方裁判所が昭和二十九年七月二十七日猛の共犯者である訴外伊藤実に対し、同年八月二日猛に対し、それぞれ言い渡した刑事々件の判決(甲第三、四号証参照)を総合すると、猛が被控訴人の社金を横領した額は三十五万三千十円となつているのであるが、この事実と以上諸般の事情とを斟酌すると、控訴人が本件身元保証により被控訴人に賠償すべき損害の額は十万円が相当と考えられる

と述べ、

立証として、甲第一ないし第六号証を提出し、原審及び当審における証人鈴木久美、鈴木重行の各証言、控訴人本人尋問の結果、原審における証人皆川猛(第二、三回)、皆川松太郎の各証言を援用し、乙第一号証の成立は認めるが、その他の乙号各証の成立は知らないと述べ、同第一号証を利益に援用した。

被控訴代理人は

本訴に対する答弁及び反訴請求の原因として

一、(一) 被控訴人は昭和二十六年十月二十六日角田慶一郎の紹介で控訴人の二女武子の夫であつた猛を雇い入れたが、控訴人はその際被控訴人のためにその身元保証をした。しかして、被控訴人は猛を当時の外売部外交係に配属して専ら官庁、会社、組合等からの注文を受け、販売先から代金を受領した場合は伝票によつてこれを経理部に報告納入する業務に従事させていたが、同人は昭和二十七年四月頃から昭和二十九年三月末頃までの間に新潟県信用農業協同組合会、新潟県酒類卸協同組合等に外売した商品代金を受け取り保管中、その大部分を横領費消しており、その間昭和二十八年十一月中その一部である二十五万五千九百八十七円五十銭の横領事実が発覚し、昭和二十九年一月十三日控訴人においてうち金二十万円を弁償したが、猛の右横領による被控訴人の残存損害額は百八万二千九百八十九円五十銭に達している。よつて、同損害金のうち金百六万一千九百五十六円九十銭とこれに対する昭和二十九年十一月十二日からその支払の済むまで年五分の民事法定利率による遅延損害金の支払を求める次第である。

(二) 仮に控訴人が猛の入社に当つてその身元保証をしたことが認められないとすれば、控訴人は、同人が前記のように猛の社金横領について二十万円を弁償した際にその身元保証をしたものと主張し、さらにこの保証の事実も認められないとすれば、控訴人は昭和二十九年四月十六日猛の身元保証をして乙第一号証の引請書を被控訴人に差し入れたものと主張し、前記の請求をする。

二、(一) 被控訴人の職員である角田慶一郎(経理部次長)、横山治一(人事部係長)、近藤正(外売部次長)の三名が昭和二十九年四月十六日控訴人をその自宅に訪問し、控訴人に対し猛の横領事実を告げ、これについて責任を負うべきことを求めた事実はあるが、右三名はこのとき控訴人に対し猛の持逃げしている金額は三十万円位であるが、その横領総額は前記弁償済の分を除いて九十万円位と推測され、実際には或わ百万円を越えるかも知れないと告げたのであつて(当時は、猛が新潟県信用農業協同組合連合会から受け取つた代金三十二万千九百二十円を持逃げしていることは判明していたが、その横領総額については弁償済の二十万円を除き九十万円位と推定され、これが確定はなお調査の結果を待たなければならない状態であつた。)、横領総額を三十余万円であるとか、猛の実家や前記角田にも控訴人と同様の責任を負つて貰うとか、さらに、乙第一号証の引請書は猛の捜索願を出すのに必要なものであるなどといつたことはない。また、この時控訴人が病臥中であり、右三名がしつこく控訴人に対して乙第一号証の差入れを要求した事実もない。これを要するに、被控訴人には控訴人が猛の身元保証をするについて詐欺、強迫がましいことをした事実はないのである。

(二) 仮に本件身元保証が瑕疵のある意思表示に基くものであるとしても、控訴人は昭和二十九年五月十五日これを追認したから、その瑕疵は治癒したものというべきである。従つて、被控訴人は控訴人主張のような取消の意思表示があつたことは否認するのであるが、仮にその意思表示があつたとしてもそれは無効である。

(三) 本件身元保証に基く控訴人の責任及びその範囲の決定についての控訴人の主張は争う。

(イ)  被控訴人が猛をその横領事実の発覚後も引き続いて外売部外交係として使用した(昭和二十九年四月七日頃解雇したことは控訴人の主張するとおりである)のは控訴人の懇請によるものである。すなわち、控訴人は昭和二十八年十一月猛の横領事実が発覚しその処分が問題となると、前記のように被控訴人に対し二十万円の一部弁償をするとゝもに、猛については将来十分の監督をし被控訴人には迷惑を掛けないようにするから内済にして従前どおり使用して貰い度いと懇請し、被控訴人はこの懇請により引き続き猛を使用することゝしたのである。しかも、これが監督については前記角田、近藤の両名をして常に十分の注意を払わせていた次第であるから、被控訴人には監督上の過失はないものというべきである。

(ロ)  被控訴人は猛の実父皆川久太郎に対し猛の社金横領について被控訴人に損害賠償をするように交渉し、そのことを控訴人に話したことはあるが、控訴人の本件身元保証はこれとは何らの関係はなく、別個になされたものである。

(ハ)  控訴人主張の刑事々件の判決に猛の横領金としてある三十五万三千十円(伊藤実と共同横領の分を含む)は同人の横領したものゝ一部であつて、その全部ではない。

これを要するに、本件にあつては猛の身元保証人としての控訴人の責任を軽減させるに足りる事情は存在しないのであり、控訴人は前記残存損害額百八万二千九百八十九円五十銭の全額についてこれが賠償責任を免れえないものである。

と述べ

立証として、乙第一号証、第二号証の一ないし四十二、第三号証の一ないし十四、第四号証を提出し、原審及び当審における角田慶一郎(原審の分は第一ないし第三回)、原審における証人近藤正、横山治一、皆川猛(第一回)、渡辺ミチ子ことみち(第一、二回)、当審における山田竹治の各証言を援用し、甲号証の成立はすべて認めると述べ、同第二号証を利益に援用した。

理由

控訴人の本訴は、給付訴訟である被控訴人の反訴請求を維持するために提出されている乙第一号証の内容となつている引請契約の不存在若しくは無効の確認を求めるものであつて、反訴請求について判断すれば、これと同時に当然に判断されるべき筋合のものであるから、便宜上先ず反訴請求について判断する。

一、反訴請求について

被控訴人が昭和二十六年十月二十六日その経理部次長角田慶一郎の紹介で猛を雇い入れ、当時の外売部外交係に配属したこと、当時控訴人の二女武子が猛の妻となつていたこと、その後昭和二十八年十一月中猛が被控訴人の社金を横領したことが発覚し、控訴人が昭和二十九年一月十三日これに関して被控訴人に対し二十万円を弁償したこと及び被控訴人が同年四月七日頃猛を解雇したことは当時者間に争がない。

次に、原審における証人角田慶一郎(第二、三回)、渡辺みち(第一、二回)の各証言と角田の第二回及び同渡辺の第一回の証言によつて真正に成立したことが認められる乙第二号証の一ないし四十二、同角田の第三回及び同渡辺の第二回の各証言によつて真正に成立したことが認められる同第三号証の一ないし十四、第四号証とを総合すると、猛は昭和二十七年四月頃から昭和二十九年四月初頃までの間に原判決添付の商品販売代金横領金額明細表記載のような社金を横領したことが認められる。猛は原審における証人尋問で、その横領金額はこれよりも遥かに少額であると供述しているが、その供述は一貫性を欠き信用することができない。なお、成立に争のない甲第三号証(猛に対する業務上横領被告事件の判決書)には猛は被控訴人の売掛金三十万三千十円を横領したと記載されているが、これを仔細に検討すると、それは猛の横領総額を示すものではなくて、昭和二十八年十二月二十日頃と昭和二十九年三月二十四日の二回の横領金額を計上したものに過ぎないことが明瞭であるから、右甲号証も前認定の反証となるものではなく、そして、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

よつて進んで被控訴人主張の身元保証の成否について判断する。

(一)  控訴人が右猛の入社若しくは二十万円の弁償に当り猛の身元保証をしたという被控訴人の主張について

証人角田慶一郎は当審及び原審(第一回)における各尋問で控訴人は前記猛の入社に当りその身元保証をし、さらに、前記二十万円弁償の際にも重ねて保証をする旨を約束したと供述し、原審における証人近藤正も後者の約束について同趣旨の供述をするけれども、その供述は何れも信用できない。けだし、百貨店というような近代的企業の経営者がその被用者について身元保証人を付けさせる場合には、保証人から保証書を徴するのが一般の事例であり、そのことはほとんど公知の事実であるといえるが、当審証人山田竹治、原審証人横山治一の各証言によると、被控訴人は猛の入社若しくは前記二十万円の弁償に当り控訴人から保証書を徴しなかつたことが明瞭であるからである。そして、他に控訴人が被控訴人主張のような身元保証をしたことを肯定すべき証拠はない。もつとも、身元保証は当事者の合意だけで成立する不要式の行為であるとゝもに、被用者の横領による使用者の損害について第三者が二十万円もの大金の弁償をするについてはそれ相当の原因があるべきであり、一般的にいつて身元保証人がその原因である場合が多いことはこれを推測するに難くないから、控訴人は前記二十万円の弁償以前か、少くともその弁償のときに猛の身元保証をしたのではあるまいかとの疑が起らないでもないが、当審及び原審における証人鈴木久美、控訴人本人の各供述と原審における証人皆川松太郎の証言とを総合すると、控訴人が二十万円の弁償をしたのは、被控訴人から控訴人に対しその弁償の要求があり、これに応じなければ猛を解雇すると言明されたので、同人一家親子五人の生活の前途を案じひたすら猛が解雇されないことを念じ、たゞそのために弁償したのであつて、決して、控訴人が猛の入社に当りその身元保証をしていたことによるものでもなければ、右弁償とともに身元保証契約ができたゝめでもなかつたことが認められるから、右二十万円弁償の事実は、被控訴人主張のような身元保証契約のできたことを証明するに足るものではない。

(二)  控訴人が昭和二十九年四月十六日猛の身元保証をしたという被控訴人の主張について、

成立に争のない乙第一号証と当審及び原審における証人角田慶一郎(原審の分は第一回)、鈴木久美、控訴人本人、原審における証人近藤正、横山治一の各供述を総合すると次の事実が認められる。すなわち、被控訴人は同年四月初頃猛が三十万円位の社金を拐帯逃走して横領したことを契機として同人の従前の所業の調査を始めたが、すると、猛の横領は右三十万円だけではなく他にも相当あるらしく察せられたので、とりあえず控訴人をして猛の社金横領による被控訴人の損害についてその身元保証人としての責任を負う旨の契約をさせておくべきことを決定し、同月十六日経理部次長の前記角田、外売部次長の同近藤、人事部係長の同横山の三名を控訴人の自宅に派してその折衝をし、遂に控訴人をして被控訴人の右損害については控訴人において一切これを引き受ける旨の約束をさせるとゝもに、その趣旨を記載した乙第一号証を徴したことが認められる。

控訴人は、前記約束は被控訴人が猛の実家と同様の約束をすることを条件として承諾したものであると主張し、控訴人と前記三名との折衝の際に三名の側から控訴人に対し、被控訴人は猛の実家にも同様の約束をして貰う積りであると告げたことは角田の当審及び原審(第一回)、近藤、横山の各原審における証言によつて明瞭であるけれども、本件を通じて控訴人のこれに対する承諾がその主張のような条件付でなされたことを確認するに足りる証拠はないから、そのことを前提として右約束は成立しなかつたものであるとする控訴人の主張は理由がない。

控訴人は、前記約束は猛の実家でも同様の約束をするものと誤信したものであるから、要素に錯誤のある法律行為として無効であると主張するけれども、契約の際のかような事情は多くは契約締結の動機であつて、当事者が特にこれを契約の条件とした場合に始めてその要素となるに過ぎないものであるが、猛の実家で同様の約束をすることが当事者の合意により控訴人において前記約束をする条件となされていたことを認めるに足りる証拠のないことは先に認定したとおりであるから、たとえ、猛の実家において同様の約束をしなかつたとしても、右約束を要素に錯誤のある無効の法律行為とすることはできない。前記約束を猛の捜索願の提出に必要であるとの誤信に基いてしたものであるとする控訴人の主張に至つては、証人鈴木久美及び控訴人は当審及び原審における尋問でその趣旨かと察せられる供述をしているけれども、右約束ないしその約束を記載した書面が猛の捜索願の提出に必要であるというようなことは普通には想像もできないことであつて、右各供述は到底信用し難く、他に控訴人がかような誤信をしたことを認めるに足りる証拠はないから、前記約束が要素に錯誤のある法律行為として無効である旨の控訴人の主張もまた理由がない。

控訴人は、前記約束は詐欺及び強迫によるものであると主張する。そして、当審及び原審における証人鈴木久美、角田慶一郎、控訴人本人、原審における証人近藤正、横山治一の各供述(但し、何れも後記の信用しない部分を除く)を総合すると、前記昭和二十九年四月十六日の角田、近藤、横山の三名と控訴人との折衝は、当初控訴人において前記約束をすることを拒絶する態度を堅持したためになかなか進捗せず、その妥結を見るまでには午前十時頃から午後四時頃までの長時間を要し、その間右三名は控訴人に対し「猛の横領額は現に判つているところでは三十万円位である」「猛の実家にも控訴人と同様の約束をして貰う積りである」「控訴人が約束しなければその依頼によつて猛を被控訴人に紹介した右角田が迷惑する」「控訴人が約束をしなければ猛を告訴する」等という趣旨の言明をしたこと及び当時控訴人は心臓弁膜症、慢性膀胱炎等の病気で自宅静養中であつたことが認められる。前記各供述中にはこれに符合しない部分がなくもないが、その部分は信用しないし、他にこの認定を動かすに足りる証拠はない。しかしながら、取引は当事者の互に自己を有利に導かんとする折衝によつて成立するものであつて、取引に当つて当事者が実際の事実を折衝の具に利用するのは人情の自然であるから、その利用の仕方が公の秩序善良の風俗に反するものでなく、且つ信義誠実の原則上からも特に非難すべきものでない限り、これが利用は詐欺強迫には当らないものと解するのが相当である。ところで、猛が被控訴人の売掛金百八万余円(控訴人による二十万円の弁償済の分を除く)を横領したこと及び角田が猛の紹介者であることは先に認定したとおりであり、また、角田が控訴人の依頼により猛の紹介者となつたものであることは角田の原審における第一回の証言によつて明瞭であるが、そうすると、前記折衝における角田ら三名の言明は実際の事実を極めて普通の仕方、すなわち、公の秩序善良の風俗に反せず、且つ信義誠実の原則上からも格別非難すべきでない仕方で交渉の具に利用したものと認める外はないから、前記約束を以て詐欺強迫によるものとすることはできない。たゞ角田ら三名が前記のように、病気静養中の控訴人に対し約七時間に亘り折衝を求めたのはいさゝか不穏当であつたと思われるが、これとても、角田が控訴人の依頼により猛の紹介者となつなものである事実を顧ると角田としてはまた止むをえなかつたことと考えられるので、あながち強く非難するには当らないであろう。これを要するに、前記約束がその主張のように詐欺、強迫に基きなされたものとは到底認められないのであつて、従つて取消の意思表示により初から無効とみなされるに至つたものである旨の控訴人の主張もまた他の判断を待つまでもなく失当である。

そうすると、記前約束は有効に成立したものとする外はないから、その効力について按ずるに、身元保証契約が原則として被保証人と使用者との間の使用関係継続中になされるものであることは「身元保証ニ関スル法律」の規定を通覧して明瞭であるが、同法はこの使用関係の解消後被用者の行為により使用者の受けた損害額の判明前に、第三者が従前の使用者との間に被用者の行為によるその損害の賠償について身元保証人と同様の責任を負うべき契約をすることを禁ずるものではないから、前記約束が当事者双方の主張するように互に身元保証をする意思でなされたものである以上、これが前記法律にいわゆる身元保証に該当するものであるかどうかはしばらくおき、控訴人はこれにより右法律にいわゆる身元保証人と同様の責任を負うに至つたものといわなければならない。

よつてさらに進んで控訴人の保証責任の限度について検討する。

被控訴人の外売部外交係が金銭の取扱をする機会の多い事務を担当するものであることは被控訴人の主張自体によつてこれを窺うに難くないから、被控訴人がその主張のように昭和二十八年十一月中に猛の社金横領の事実を発見した以上、被控訴人は猛を成るべく金銭の取扱をしない部署に配属するとともに厳重に監督すべきであつたというべきであるが、被控訴人がかような所属替をしなかつたことは被控訴人の主張自体によつて明かであり、また、本件を通じて被控訴人において猛の爾後の監督について特に意を用いたことを徴すべき証拠はないから、被控訴人は猛の監督について過失があつたものとする外はない。被控訴人は、猛の所属替をしなかつたのは、控訴人が前記二十万円の弁償に際し所属替をしないように懇請したことによるものであると主張し、当審及び原審における証人角田慶一郎の各証言中にはこの趣旨にもとれそうな供述があるが、その供述が真実にこの趣旨のものとすれば、同供述は信用しないし、他に右懇請の事実を認めるに足りる証拠はない。もつとも、控訴人が前記二十万円の弁償に当り被控訴人に対し猛を解雇しないように懇請したことはその当審及び原審における各本人尋問の結果によつて明白であるが、かような懇請の事実が前認定の被控訴人の過失に何らの消長も及ぼすものでないことは論を待たないところであろう。しかして、当裁判所は被控訴人の右過失と上来認定した諸般の事情(控訴人はこれ以外の事情も主張しているが、当裁判所は、それらの事情は控訴人の責任限度の決定については影響のないものと考える。)、特に控訴人が本件契約をするに至つた事情及び猛の本件横領については徳義上控訴人以上に責任を感ずべきその実家の者がいることを彼れ此れ斟酌して控訴人に対し三十万円の損害賠償をする責任を有するものと認定する。

そうすると、控訴人は被控訴人に対し三十万円の損害金支払義務を負つていることが明瞭であるから、被控訴人の反訴請求中右金員と猛の本件横領後の昭和二十九年十一月十二日からその支払の済むまで年五分の民事法定利率による遅延損害金の支払を求める部分は正当として認容すべきも、その余は失当として棄却する外はない。

二、本訴請求について

控訴人の本訴は、要するに、前顕乙第一号証に表示の引請契約は存在しないか、無効であるかであるから、その旨の確認を求めるというに帰着するが、右契約が有効に成立し、現に効力を有するものであることは反訴についての説示に徴して明白であるから、控訴人の本訴請求は失当として棄却を免れない。

三、結び

以上の次第であつて、原判決は一部不当であるから、これを変更すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条、第九十二条、第九十五条、第九十六条、仮執行の宣言につき同法第百九十六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 岡咲恕一 田中盈 土井王明)

引請書

皆川猛貴店在職中之不仕末に就テハ一切引請ケマス

昭和二十九年四月十六日

北蒲原郡濁川村大字濁川

鈴木小右衛門〈印〉

小林百貨店社長 小林与八郎殿

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